昭和56年7月26日 朝の御理解        【大坪ハルコ】

御理解第8節「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」

 この御理解を頂くたんびんに、思うのですけれども、本当に、親神様の、切実心と申しましょうか、切実に氏子助かってほしいと、人間氏子にかけられる願いを感じます。
えー、そこで、信心しておかげを受けてくれよと仰る、信心をして、どういうおかげを頂いたら、神様が安心して下さり、喜んで下さるだろう。ね、信心はしておっても、立ち行かない、心が立ち行かない。いうならば、信心頂いておっても、心に安らぎもなからなければ、せいなりはい?の上においても、あー、難儀ということであったら、えー、これは、信心頂いておっても、そういう難儀、まあそういう、うー、難儀な氏子ほど、神様はかわいいと仰せられても、かわいいとおぼし召したところで、なら、かわいいからというて、手を差し伸べて下さるわけにもいかんのが神様と人間氏子の関係なんです。

 ですから、どうしても、信心を頂いて、まずは、私が助かると。ね。すべての天に?まあ、いうならば、人間の幸せというか、その条件が、だんだんたろうてくる。ね。形の上においても、心の上においても。そういう助かりを、神様はねごうておられるのである。
 昨日、えー、幹部研修会、婦人会の信心研修でしたが、んーん、秋山さんが、婦人総代の秋山さんですが、発表しておられましたが、先だってから、えー、お父さんが、歯が悪いので、えー、吉井の方の歯医者さんに通うておられる。それも、まあー熊谷さんのお世話だったそうですから、お父さんをあちらへ送っていかなきゃならん。その間を、熊谷さんの所で、待たせて頂くわけなんですね、秋山さん。そして、その行かれるたんびんに、感じられることは、熊谷さんがおかげを受けておられるということ。もちろん、物質面でも、もう80幾つの、あの大きな家に、一人住んでおられて、なら、子供さんたちも(大路?)あるけれども、それぞれのおー、お仕事の関係で、遠方におられたり、近所におられても、それは娘さんですから、もうお嫁に行っておられるということだけのことであって、80何歳のおー、そのおばあさんが、本当にもう、不平不足の陰りもない。ね。もう、第一あちらに行ってから、私は、今度感じましたことは、熊谷さんの心の助かっておられるということに、驚きもし、信心ちゃ、有り難いものだとということを感じたという発表を、昨日してました。形の上だけは、立ち入って、いうならば、何不自由のない生活をしておりましても、心が立ち入ってない、心が助かってない。その助かり具合の素晴らしさに、秋山さん、まあ、本当に信心というのは、有り難い。ね、信心は頂いておっても、年をとるにしたがって、寂しゅうなる。そして、顔を見せさせすりゃ、不平であり、不足でありと言ったような、年寄りも、信心頂いておってもあるのです。

 ね、結局信心のいうならば、芯ところ言うもの、信心頂いておかげは頂いてきたけれども、信心を頂いていないということになると、そういうことになる。ね。信心させて頂いたら、年をとるほど、くらいがつくものじゃとか、ね、1年1年有難うなっていくと、そういう、いうならば、1年1年有難うなっていく、なるほどこれが信心のくらいというものでもあろうかと思うような、感じというものが、心の中に頂いてくるときに、心がいつも安らいでおる。まあ、そういう、これ、どれという、そのわけではないけども、とにかく、助かっておられる、その様子に、行くたんび、たんびに触れて、関心したというのである。

 ね、あたくしもそう思うですね、熊谷さんは、助かっておられると思う。ね、もう、椛目始まってからですから、30数年、日参を欠かされない。吉井から。ね。ただ、日参が続いたという人は、いくらもあるにいたしましても、合楽の信心、ゆうなら、最近の合楽で言うならば、合楽理念のマスター、合楽理念に基く生き方をしておられるということでは、なかろうかと思うのです。そういう、助かりの氏子を神様は願っておられるのじゃないだろうか。信心は、しよるけれども、いつも、不平不足である。信心は、頂いておるけれども、いつも、(かぜに難儀)しよる、貧乏しておる、あれが痛い、かゆいとゆうておるという。信心して助かっておるというのは、心が助すかり、そして、形の上の物にも言うなら、幸せの条件がたろうてくるほどしのおかげを頂くためには、信心を頂かなければならない。神様の切実心というものを、私は、あのー、私どもが感じたときに、これは、本気で、助からなければならないなと、思いますことは、昨日のミニ御理解の中に、えー、上滝総一郎くんが、神様にお知らせを頂いたと、まあ、今が中学生です。ね。そして、そのー、まあ何と申しましょうかね、いろいろとお知らせを頂いた中、私も解することができない。自分もわからんけれども、こやって、なんかこう、紙を出せ、鉛筆を出せというて、すると、こう、なんかこう、ひらがなでさあーと書いて下すって。まあ、お筆さきと言ったような感じですよね。それで、頂いておる、先だって、母親が、総一郎がこういうようなことを頂いておりますと言うて持ってきたんです、ここへ。それでも、私一読させて頂いたけれども、何が何やら一つも分からなかった。それが、昨日のミニ御理解の中に、まあ、少しは(つめをくわえた)わけですけれども、頂いておる。聞いただけじゃ分からんです。皆さんも分からんだろうと思うけどね、そのご神意に触れたときに、思うですね。読んでみますと、「神徳の恵の中に、神ありて」と。ね、「神徳の恵の中に神ありて」と。
 お取次ぎを頂く、お願いをする、おかげを頂く。そのおかげの中にある神様と言っておられるわけですね。その、これはだから、信心しなければ、分からない、頂けない感じです。お取次ぎを頂き、お願いをする。ね。

 昨日のご理解じゃないけれども、医者、治らんと言うのが治ったり、ね、言うならば、奇跡的なそのおかげをまあ、受けた話を昨日しましたが、そういうその、不思議とか、奇跡と私どもが思う、その中に神ありてと仰る。ね、普通一般では、神様と言うのは、もうこの天地いっぱいに遍満してござるんだと。これが、普通一般の説き方なんですよね。それこそ、神の中をわけて通りおるようなものだと教祖もまた仰っておられます。御教えの中に、「信心するものの真の神徳を知らぬこと」という御教えがある。ね、これは、今言う、天地の働きそのもの、そのものが、神徳の現われだとこういう風に言う。けれども、ここではね、ここで言われる神徳というのは、ね、神様が特別な働きを現してくださるという意味なんです。ご神徳。その中に、神があるとこう。ね、だから、非常に見解が狭いようであって、まあ、深さの点においては、もう限りないものを、そこから私は感ずるんです。

 ねー、「氏子ありての信心、神徳」と。氏子ありての信心神徳。私は今日の御理解のいわいる神様の切実な言うなら、お嘆きとでもいおうか、お悲しみとでもいおうか、ただ、氏子信心しておかげを受けてくれよと、もう、手をつかんばかりに、人間氏子に頼んでおられる感じる。ね、それは、ならここにありますように、ね、氏子ありてのと仰っておられます。ね、人間氏子がおらなければ、信心もなからなければ、神徳もない。牛や馬に信心をあたえるわけにもいかん。牛やら馬に、神徳をあたえるわけにもいかん。人間があって、人間がその気になって初めて、信心が出来るのであり、同時に、神徳をあたえることもできる。そこに、神様有難うございます、日々親恩報謝の生活が出来る人間が、そこに一人でも、二人でも増えていくということが、神様の願いであり、まあ、それが言うならば神様の楽しみだということ。ね。

 私は、ここんところを頂きましてから、いよいよ神様のこのお知らせに対してですね、もう氏子ありてのと仰る。氏子があっての信心なんだよと。これは、よく似た教祖の御教えがありますね。「氏子ありての神、神ありての氏子」と言ったようなふうに仰っておられ、これもやっぱそうでしょうけれども、氏子ありての信心なんだということ。ね、牛馬に信心を言うてもわかるはずがないでしょ。ね。どんなに有り難い、素晴らしいものだと言うて、神徳を牛馬に、神様やりなさるわけにはいかん。もう、やれれるのは、人間氏子だけなんだと、こういうことです。ね、その人間氏子だけにしかやれない、というて、誰にでもやれるわけにはいけんのだ、信心してと仰っておられる。ね。信心して、真の神徳を受けてくれよという、まあ、神様の切実なる、言うなら神の願いであり、悲願なのです。だから、そこのところが分からせて頂いての信心。

 ねぇ、私は熊谷さんあたりの場合なんかは、もう30年間様々な通られ、様々なおかげを受けてこられえる、そのおかげの中に神様をはっきり見極めておられるのじゃなかろうか。だから、あのように、安心しきった状態でおられるのじゃなかろうか。喜びいっぱいで生活できておられるのじゃなかろうかと。ね、80何歳になられて、それこそ人がたまがるような健康の上にも、ね、金銭物質の上にもね、とにかく、その家に行って人が、とにかく行った者が助かる。ね、秋山さんはそれ、もう、今度そういう、お父さんを歯医者に連れて行って、幾日もあちらにお世話になって、言うなら熊谷さんの助かっておられるのに、まあ、本当に信心ちゃ有り難いものだと、一つの驚きを感じておられる話で、昨日はありましたけれども、なら、めいめいがね、なら、信心を頂くということになると、今のような天地の親神様の心の底を分からせてもろうて、その心の底に沿い奉る生き方をさせて頂くときにです、ね、お恵み、いわいるお願いをしておかげを受ける。おけがの中に神様が生き生きと、ありありとそこに感ずることができる。それ、そこに神様を感ずるから、心がいつも安らいでおる。心が喜びでいっぱいなのだ。ね。

 氏子ありての信心神徳。ここんところをね。もう、人間氏子だけにしか、信心はでけんもんだと。また、神様が下さろうとする、神徳も、また人間氏子だけにしか、やれないものだと。だから、氏子信心しておかげを受けてくれよと仰る。様々な難儀、様々な困った問題といったようなことから、入信のおかげを頂いて、そこから、真の信心をだんだん分かっていくんですけれども、それを終止、おかげを頂くとが神様、ご利益を受けることが信心と言ったような、観念からですね、いわいる信心しておかげを受けてくれと仰せられる、信心を目指させてもらうということ。そして、頂くおかげの中に生き生きとありありと神様を見出していくということ。そして、その神様を現していくということ。これは、人間氏子じゃなからなければできないんだと。信心もね、神徳もこれは誰にやる、人間氏子より他にやりてはないです。ところがそれを、ね、世界中の氏子に話がしてみたいと仰せられる神様なのだけれども、聞く耳を持たんから、せんにおよばんと仰せられる。ね、私どもが頂く受け物を頂き、聞く耳を頂かせてもろうて神様に安心してもらう喜んでもらえれる、ね、これはなるほど、信心を頂いておりますとね、いろいろ、教えの鏡というものを立てさせてもらうと、自分の言うなら心の見苦しさ、汚さというか、ね、浅ましさというてもいいでしょう。ようなものを、自分の心に感ずることができるんです。いわいる、分かるんです。ですから、いよいよ私こそ屑の子というような自覚もでけてくるです、信心が深くなれば深くなるほど。ね。ところがそういう私でも、神様がおかばい下さり、おかげを下さるというところに有り難い、いよいよ勿体無いという心が生まれてくるんです。ね。ですから、その有り難い、勿体無いの信心がですでけていくおかげ。それがなら、あー、おかげの上にも現れてくる心の、言うなら立ち行きの上、生活の上の立ち行きの上。すべてのてんに、神様が生き生きと現れて下さる。ね、そういうおかげを願わないかんです。自分の思うようにならんと、もう、神様がおかげを頂かせきんなさらんごと言うたり、自分の思うようにならんと、この頃ちっともおかげ頂けんごとなったっと言うようなことを平気で言うような人があります。そうじゃないです。神様は、もうやりとうて、やりとうてまたらんでおられる。だから、こちらが信心になりさえすれば、心の立ち行きも形の上での立ち行きも、ずっと神様が下さるんだ、見て下さるんだと言うことをね、昨日私は、秋山さんの発表を聞いて、熊谷さんのことを、の信心を、まー思うて、なるほどこういう助かり方になっていかなきゃならないなー、こういう助かり方こそ、一年一年有難うなっていく信心だなーというふうに思わせてもらいました。どうぞ。